2004年10月16日
書けるかな・迷走編
最近好きだったりべつにそうでもなかったりする作家さんのエッセイをよく読みます。というのもこうした場をいただいて適当に喋っていいよ、といってもらえたのはいいけれど何を話せばいいのかわからねえ、というミジメな自分に憤慨したからなのですが、何を読んでいるのかはまた後日に紹介するとして。
もうわたしのコラムはきっと誰も読んでないんだ! という確信のもと、かなり無軌道かつ実験的に、色々な芸風を試しためし雑感つれづれと書くことにしました。いわば出張版雑記というわけで、きっとろくでもないことを書きまくりますが、どうぞよしなに。
そういうわけで前回までの流れはなかったことにするとして、間を置いて書くことが雑談というのは非常にわたしの駄目さがしのばれる感じですが、とにかく音についてです。
(以下、語り口をわたしの思う「エッセイ風」に変更)
べつだん話す人話す人に訊いて回っているわけではないのだが、恐らく文章を読む上では、人それぞれ重視する事があったりなかったりすることだと思う。〝重視〟としゃちほこばった言い方をしなくても、とにかく自分はこういうのが読みやすい、こういうのは読みにくい、という傾向はあることだろう。人が本を読んでいるのを見かけるなり観察して質問した時期があったので、そうそう的外れな考えではない、と思うのだが、いかがだろうか。
たとえば一般に文章を書く際、漢文のごとき難解な漢字や、一見すぐ理解できない単語、熟語を連発するのは好まれない、とよく言われる。文芸の新人賞などにおいてもその傾向はあるらしい。要は搦め手に頼るな、簡潔さ、単純さにこそ工夫をこらせ、ということなのだろうか。
恐らく漢字の読解力を大きく左右するであろう読書量や語彙などは、個々人で当然差が出るものなので、ある人にとってはべつになんてことはない、という本でも、別の人にとっては漢字が難しすぎる、言い回しが難しすぎる、という話は割合よく耳にする。言文一致する少し前の日本文学などは、たしかにある程度慣れていないと、読むだけで、まるで授業中に外国語を訳しているような疲れた気分になることうけあいなので、いざ読もうと思ってもページをめくる手はすぐに鈍くなり、やがてまぶたも重くなるものだ。これは実体験なので、意外と迫真であると思われる。
また、別なケースとして、制服を着込んでいた時代、図書館で誰にも借りられず塵埃積もるがままになっていた『純粋理性批判上巻』を発見して一読してみた所、五十項あたりでその日はまともにものが考えられなくなった、ということがあった。それはそれで後日なんとか読みきったのだが、正直読了しても内容を理解できた気にはまったくなれず、骨折り損の気分を満喫したわたしは、また続編に手を出す気にもなれなかった。近年あらためて再読すると、また違った発見があったような気はしたが、やはり理解できたかというと怪しいものである。生兵法はけがのもと、ということだろうか。
それは極端な例だとしても、現代語において荘厳で重厚、言い換えればもったいぶっていたりまわりくどかったりする言い回しを好みとする人もいるだろうし(わたしもどちらかといえばそちらにあたる)、読めなくは無いけどやはり簡潔な文章こそが好ましい、という人もいる。ちなみに(少なくともわたしの周囲では)論文などで言い回しをこねくり回すのはあまり好まれないようだ。これは善し悪しというよりも好き嫌いの次元だろうと思いつつ、わかる気はする。
一口に「文章」といっても、それが何を目的にするかによって望ましい性格は変動するのだろうが、この場でいう「文章」は、やはり小説のそれが適当だと思われる。ので、俎上には物語りを乗せることにする。
その場合、重視する事には最小単位である文章そのもの以外にも、たとえばストーリーのジャンル、どの著者が書いているか、といったこともかかわってくる。
そして――長々と前置きをしたが――、読む際、書く際にわたしが重視する、というか根底に置いているのは音である。それは良く言われる五七五の拍子であったり、あるいは韻だったりする。単純に語呂であることもある。とにかくわたしがいい、と感じる一文は、どこかしら歌じみた調子であることが多い。(余談だが、人の好き嫌いも名前の響きで変わったり声の感じで変動する事もまれにあったりする。どちらが先に立っているのかは、おそらく鶏と卵だろう)
また、物語なら筋そのものを音に喩える事もできると思う。
粛々と本筋への導入をはかる場合もあれば、冒頭から盛り上げにかかる場合もある。エンターテイメントとして共通しているのは、当然どんな物語もクライマックスを意識している、ということだ。
なんでもかんでも音にはめこんでしまうのは、書いていて正直強引だと思わなくもない。けれども、〝読む〟という時点で、それは声帯をつかって紙面の文章を歌っているようなものではないか、とも同時に思うのだ。わたしのこういう性癖は、ひょっとしたら何かしらの原体験に兆しているのかもしれない。などと考えるのはいま現在発熱にうなっているせいだろうか。ともかくスペースが詰まってきたので、音については機会があればまた次回。
――と、慣れない丁寧語抜きでしゃべくってみました。気分的には「勇気凛凛ルリの色」の浅田次郎氏の文体をパクったかんじです。次回は内容を継いだまま村上春樹氏調で行ってみようかとか思っているので、止めたいひとはコメント欄、bbs等にネタをふっていただけると喜びます。
ジャンル問わずおすすめの作品(エッセイも含)の密告は随時募集しています。お気軽にどうぞ。
2004年10月その他のエントリー
2004年10月04日
2004年10月02日